私はずっと絡まりまくった自己愛のなかで苦しみ悶えつづけていたのかもしれない。いままで何か行動をするとき、意味のある行動でないとダメだと思ってきた。何かしらの結果を生み出したり、生産性のある行動でないとやる価値はないと思ってきた。だから自分を愛した先に何かを手にしなければいけない、そう思ってしまっていた。そして同じように苦しんでいる方も多いはず。
でもその生産性ある行動をしようと思ったとたん、自分の思考が外側へ向き緊張が走るような気がして、面白くなくなる。それに一番はその目標としているものを得られなかったらどうしようと手が止まるのです。ただ自分を表現したいという気持ちから最初は動き出そうとした。私は私を表現したがっている。でもその時に意味や結果を求めてしまって、人からフォローされるにはどんなアイコンで、どんな発信内容で、どうやって自分の価値をアピールして、自分には何が出来るのか、相手に何を提供できるのか、どうやって成功したのかを発信しなければ価値はないとなってしまい、手が止まる。どうして私はいつまで経っても、自由に感じるままに自分を表現して生きれないのだろう。私はもう自分自身を縛りたくない。
男性だとか女性だとか、価値があるとみなされる職業なのかそうでないのか、どんな成功をしていまこの発信をしているのか、どうしたら多くの人の憧れの眼差しを引き付けられるのか、そして選ばれる価値ある女性である人だけが勝ち組だと言える、そんな思考に私は縛られ続けていた。そのどれもを手にしていない私は劣っていて欠陥品。そんな言葉を私は自分自身に浴びせていた。でもそんなの誰が決めたんだろう。少なくとも自分自身が自分に向けてそんな視線を浴びせるのはもう辞めにしたい。
もしも神様みたいな存在がいたとして、そしてその神様がこの世界を創造したとして、全員が同じ役割でキラキラ輝いているインフルエンサーばかりを創造するとは思えない。私は数年前、キラキラとセルフラブを発信する女性に憧れていた。その人は私が欲しいものすべてを手にしているように見えた。でも今ならわかる。その人のなかにも苦しみは存在しているけど、そんな姿は見せないだけ。それがその人のビジネススタイルだったのだ。でも私には私なりの発信がきっとできるはずだ。発信したがっている自分の魂は何かを誰かに伝えたがっているように感じてならないのだ。でも私はあんな太陽のような発信はどうやっても出来ない。でも視点を変えて、もし神様がいろんなバリエーションでこの世界を創造しようとしているのなら、なかには人の痛みや悲しみに寄り添うような、決して派手ではないけど見ていて安心するメッセージを発信する人も必要なんじゃないか。きっと私ができるのは後者の方だ。私は決して自ら発光しつづける太陽ではないけれど、月のように静かに光っていて、そしてその光は誰かの鏡の役割を果たすものだと最近はそう感じている。
私は自分を生きたい。私のあたまの中にはいままで自分じゃない誰かの思考がずっとあって、その声がずっと優先され、その声に支配されてきた。私は真に私のために生きたことがあるのだろうか。ないかもしれない。でもいろんな体験をしてきたはずだ。そして人一倍痛みも味わってきた。
そしていずれ仕方なくやっているすべてのことを手放したい。いまの仕事が心から好きだとは言えない。いま関わっている人たちのことも心から好きだとは言えない。仕方なく、ただ仕方なく仕事上会わなければならないから会っているだけ。だから仕事のときもずっと心を閉ざして関わらないようにしている。彼らの存在を私のなかに入れたくなくて、関わらない。見えない、聞こえない、気づかないフリをしてやり過ごしているけど本当は嫌なんだ。「こんなはずじゃなかった」そんな声が聞こえる。だからまずは自分を外へ開いていこう。自分を開いていろんな人と存在を分かち合う。そんなことそ始めたい今日この頃。
すべてを投げ出したい。普通すぎる毎日を生きている人間だからそんな気持ちにもなるし、そしてたまに良い気分になることもある。そんな日常がリアルで、生きるということなのではないかと思ったり。そんな普通すぎる毎日とリアルな心の葛藤を発信する人ってあまりいない。誰もダメとは言ってないけど、そんな日常は取るに足らないと思いがちで、発信する人がいないだけ。みんな自分にとって都合のいい、インスタ映えするたったある一部分だけを切り取って発信しているだけだから。でもリアルはもっと痛かったり重かったり、そして心弾んだり、ゆるんだり。いろんな感情があるから、そのすべてを「これは見せて良いもの、これは見せてはダメなもの」と分類するのはやめよう。
私は自分自身を愛した先にある何かを得ることより、いますぐ自分自身を安心させてあげたいのだと最近になってようやく気づいた。自分を愛するために高いお金を払って『セルフラブマスターコース(仮)』みたいなものを受講したって自分を愛せるようにはならないし、お金を払って学ぶことでもないのかもしれない。だって実はすでにみんな自分を愛していると思うから。そのベクトルが違ってしまっているだけであって、みんな自分を幸せにしたいから動きたいように動いているだけ。それに自分を愛した先に得たい何かがあると、なんだか邪な感じの愛情を自分に向けることにもなって気持ち悪さや違和感を感じる。だからただ純粋に自分を愛したい。自分を愛した先に自分を愛してくれる最高のパートナーを引き寄せたいとか、自分を愛した先にリッチな生活を手に入れる!とかじゃなくて、自分をいまこの瞬間の自分自身が愛することで自分自身を安心させてあげたい。もしかしたら最高のパートナーができることはないかもしれないし、お金のある豊かな未来が手に入らないにしても、私は私自身を愛する覚悟を決めなければならない。
いままで私は付き合ってきた男性に「私は私自身のことを愛することが出来ないから代わりに私のことを愛してくれませんか?」そう自分のことを相手に押し付けてきてしまったのかもしれない。みんな自分自身のことで精一杯な世の中で、誰か他人のことを押し付けられてもそんなの手に負えないだろう。私もそんな男性が自分の目の前にいたら窮屈さを感じる。それにそれを言われているときの自分は悲しかろう。だって自分自身から「この子のこと私は愛せないからあげるよ」って言われちゃってるんだもん。私は私を自分自身の手で幸せにする。私は私の魂が経験したいと感じていることをすべて経験させてあげる。そしてどんな感情が生まれてもそれに向き合う。見て見ぬフリ、他人に自分を押し付けたりはしない。その覚悟を決めなければならない。
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