皆さんはダイナミック瞑想というものをご存じでしょうか?
Oshoという人物が生み出した瞑想のひとつです。Oshoのことを何と称したら良いのか難しいところですが、インドのスピリチュアル指導家、神秘家などと言われていたり、彼は現代の人々にフィットした瞑想を提唱しました。そのひとつがこのアクティブ瞑想であるダイナミック瞑想です。とってもカリスマ性のあるお方だったそうですよ!!
『アクティブ瞑想』というだけあって、動きます!!かなりのハードワークです!!
そしてこの瞑想法は朝、空腹にて行うことが推奨されています。
※決してこのように静かに座って目を閉じ、穏やかに行う瞑想法ではありません。
いい感じのフィットする写真を見つけられなかったのですが、強いて言えばこんな感じかな。
獣へと化して理性を取っ払い感情が沸き上がるのにまかせて声を発し、身体が動きたいようにまかせて身体を解き放つ!そんな感じです。
ダイナミック瞑想と私の出会い
私がこの瞑想に初めて出会ったのは2019年でした。ちょうどコロナが流行し始める頃、そしてその翌年の2020年4月の緊急事態宣言により閉ざされた社会となり、それまで当たり前に出来ていたことが当たり前に出来なくなるという、未だかつてない異常な事態を経験し、多くの方がパニックに陥っていた時期でもあります。テレビのニュースでは芸能人の自死のニュースが流れ、大変ショッキングで暗いニュースが飛び交っていました。そんなとき、私は偶然か必然かこの瞑想と出会うこととなりました。
この瞑想と出会った当時はまだこの瞑想の偉大さに気が付いておらず、なんだか無理に動いたり叫んだりしているみたいで嘘っぽく感じてしまい、継続できずに体験程度で終わってしまいました。ですが、その数年後に本当の意味でこの瞑想の素晴らしさに気が付くこととなりました。それは私がカウンセラーの勉強をしていた頃、カウンセリングの実践練習をしていたときに感じたのです。現状の問題点について話を一通り聞き、会話の中でその解決の糸口を探していても絶対にブレイクスルーなんて起きないということに気づいてしまったんです。だってそれは所詮、頭の中の領域で行われているに過ぎないからです。言葉にならない感情があるし、思考で問題について協議したとてたどり着けない感情があって、それが本当に自分が気付くべき置き去りにされた感情だから。それを感じるのに優れた瞑想法がこのダイナミック瞑想でした。すごいものを教えていただいていたのだな~と今更??という遅れたタイミングで府に落とした私でした。
そこでこの瞑想をまずは21日間続けてみよう!そう思い立ち、この夏、私はこのダイナミック瞑想に心を燃やそうと決めたのです。そして取り組むにあたって、もっとOshoの言葉の理解を深めたい。そう思い、いまこのブログにまとめていきます!私をとおした解釈になりますが、どなたかのヒントになると幸いです。
ダイナミック瞑想を構成する5つのステージ(全60分)
- 第1ステージ(10分間) 速く、深く、混沌とした呼吸
- 第2ステージ(10分間) カタルシス
- 第3ステージ(10分間) 「フー、フー!」のジャンプ
- 第4ステージ(15分間) 突然の静止
- 第5ステージ(15分間) 祝祭のダンス
引用:https://osho-japan.com/meditation/guide/dynamic2/
第1ステージ:早く、深く、混沌とした呼吸
なぜこの最初のステージで混沌とした呼吸が必要かというと、Oshoの言葉を私なりに解釈をすると、混沌な呼吸はいままでの『これがワタシ』だと定義づけてきた様々な枠や、しばられてきた様々な観念をぶち壊すため。そしてさらに自分のなかに混沌とした無秩序を発生させ、これまで抑圧してきた感情を爆発させるために必要だということ。
確かに体験してみてもこの混沌とした呼吸をしているとき、自分の中で湧き上がる感情を観ることができる。溢れだす感情がこの第1ステージの時点ですでにあるのがわかる。自分の中に深く深く潜っていけるように、自分から『枠を取っ払ってやるー!』という意識で呼吸に取り組むステージです。
第2ステージ:カタルシス
そもそもカタルシスってなんぞや?という方のために、カタルシスとは?
カタルシスとは哲学や心理学における「精神の浄化」のこと。無意識の内に抑圧されている、過去の苦痛や恐怖、罪悪感をともなう体験、そのときの感情などを、言葉で外に出すことによって、不安や不快感などを浄化することを指します。
https://www.recruit-ms.co.jp/glossary/dtl/0000000092/
この第2ステージは浄化。意識的に狂い、泣きわめき、怒り、暴れ、笑いたいなら思う存分に笑う。感じたものをそのままに全身を使って表現するステージです。この『意識的に』というのがポイント。
『意識的に狂いなさい』とOshoは言っています。
私は初めてこの瞑想をしたとき、狂うって何だかわからなかったし、狂えと言われても狂えなかったのを覚えています。それはいままでの人生で感情を当たり前に抑圧してきているし、みんなからはみ出ることをすることは恥ずかしいことだったからです。泣いたらズルいって思われるとか、怒ったら怒りっぽい変な人だって思われるとか。あるいは、誰かが感情的になっているところを目にしてこちらが嫌な気分になったりして、感情を露わにすることは恥ずかしいことなんだと学び、私たちは自然に抑圧するということをしてきました。だから『意識的に狂いなさい』と言われても狂えないのは仕方のないことなのかもしれません。
そしてOshoもこう言っています。
はじめのうちは、それは強制であったり努力であったり、あるいはただの演技でしかないかもしれない。私たちはあまりにもうそ偽りに満ちているので、本物 で真正なことはなにひとつできない。ほんとうに笑ったこともなければ、泣いたことも絶叫したこともない。すべてがただ外観だけ――仮面だ。だから、この瞑 想法を実行しだすと、はじめのうちそれは無理強いかもしれない。努力を要するかもしれないし、演技だけで終わるかもしれない。
https://osho-japan.com/meditation/guide/dynamic2/
この第2ステージでは身体が表現したいままにまかせて、身体を動かしてあげるのですが、それもまた難しいんですよね。身体がどう動きたいかなんて、それまで考えたこともなかったからです。きっと4歳とかそれくらいまではそうしていたのかもしれませんが、学校に行ったり、習い事をする中で矯正されてしまいます。
私はすごく記憶に残っていることがあるのですが、4歳くらいだったでしょうか。エレクトーンの教室に通っていたときにグループレッスンだったのですが、先生がお話をしているなか、他のお友達はみんな鍵盤から手をどかして先生のお話をちゃんと聞いてるなか、私は目の前の鍵盤を見ながら、弾きたくて弾きたくてたまらない衝動にかられ、先生の声が耳に入らずに曲を弾き出してしまったことがあるのですが、ものすごく怒られたのを覚えています。当時の私はまったく悪気はなかったのですが、エレクトーンを弾きたすぎて先生の話がまったく耳に入らなかったのですね。誰しもが幼い頃にそういった経験を経て、身体も心も矯正されていってしまい、『自分がそのとき表現したいことを表現する』とは程遠い、みんなからはみ出ない人間を完成させていってしまうのですよね。そしてそれが自分らしさを表現できなくなり、苦しみを生み出すという、なんとも悲しいループに入って行ってしまう…。
でも大人になったいまはちゃんとしなければいけない場面ではちゃんとする、スイッチを切ってリラックスをしたいときは完全に寛いでいる、そんな状態の切り替えができるので、自分を四六時中抑え込むなんてことはしなくて良いのです。だから自分にとって身体の心地良さとは何なのか、そして自分の身体がどう動きたいのか、また心はどうしたら安心を感じるのか、についていつも意識的でいましょう。
第3ステージ:フー!フー!ジャンプ
ここでは「フウッ!」というマントラを発しながらジャンプをして、踵を床に打ち付けることで第1チャクラを活性化し、第1チャクラが司る生命力を取り戻していくステージ。ここで重要になるのが第2ステージのカタルシスで、いかに自分のなかを空っぽにできたかということ。ここで空っぽになるまで思う存分狂うことで、この「フウッ!」というマントラが自分自身の内側を打つものとして機能するということです。そしてこれが機能することで、自分自身がガラリと変化するエネルギーの上昇が起きます。
このステージのおかげなのか、私はかなり面倒くさがり屋な部分があるのですが、行動的な面が顔を出すこと増えたように感じています。基本的に家が大好きで、用がある日に他の用事もまとめて終わらせよう!みたいな人間です。ですが「そういえばここに行きたいと思ってたな!来月行こう!」「料理をするのが好きだからテンションが上がる可愛い食器を探しに行こう!!」「友達や家族に料理を振る舞っちゃおうかな、何パーティーが良いかな??」「瞑想リトリートに行きたいな」という具合に、いつもなら湧いてこない行動に結びついていくアイディアがたくさん浮かんできて、そしてそれを楽しみだなとワクワクする時間が増えた感じがしています。ここ数年仕事に追われすぎて自分の身体や心を疲労させすぎた私は、このワクワクすることこそが生命力なんだなと久しぶりに感じています。
第4ステージ:突然の停止
ここでの段階はOshoいわく『飛躍』だそう。第3ステージまでの浄化がなされていれば、ここで静寂のフェーズに入りエネルギーの上昇が起きる。ここでは何もしてはいけない。くしゃみがしたくなっても我慢、鼻を掻きたくなっても我慢、汗が身体をつたって気持ち悪くて拭いたくなっても我慢、それらはエゴが気を散らしてエネルギーが上昇し飛躍していくのを阻止するために仕掛けてくる罠だから。それすらも観照者となり観続けます。この第4ステージでは起きているすべての出来事をただただ観照者となり観る。考えることも祈ることも望むこともせず、ただ自分自身にとどまり、起こることをたえず油断なく観照していること。
数日前のお話ですが、思考が多い私はこの第4ステージがとても苦手でして、第3ステージまでは呼吸に没頭したり、カタルシスで意識的に狂ってみたり、フー!フー!ジャンプも『うぅ…キツイ…』とか邪念が入りながらも必死にやるんだ!やると決めたんだから私はやるぞ!!というので乗り越えられるのですが、いかんせん『何もしない』ことが苦痛、そして腕を伸ばした体勢で停止、というのが体勢的にもキツくて、「早く終わってくれ…」と思いながら取り組んでいるのですが、今日この第4ステージまできたある時点で『愛してるよ』とどこからか聞こえた気がしたんです。『気がした』と感じてしまうくらいの一瞬の出来事だったのですが、そもそも聞こえもしなかったら『気がした』とも感じないはずなので、きっと本当にそんな声が自分からなのか、どこからなのかOshoのいうところのスペースで発生していたんだろうなと思っています。その瞬間涙が出ましたが、それも過ぎ去り、また頑張って停止をしている、みたいなまだまだ静寂とは無縁の私です。
第5ステージ:祝福のダンス
祝福のダンスについては、引用&参考にさせていただいたOSHO JAPANに特段記載はないのですが、音楽とダンスとともにここでも身体が表現したいように生き生きとそこにあるものを表現する時間です。そしてこのエネルギーを携えて1日を送りましょう!というもの。
私の感覚ですが、これはもう新しい生の始まりのような感覚です。そしてそれに対する祝福。そして私や他の誰かがされているお話は『私の体験は』ということです。人には人それぞれの体験があると思うので、アクティブ瞑想をすればこんな体験が出来るんだ!などと体験を決めつけることなく、シェアの一部として聞いていただければと思います。
私がこのステージで体験したことは、自分自身の身体を愛でたくなる!!ということ。本当は祝福のダンスのお時間なのですが、私はそのときに触れたいと感じた自分の身体のパーツを撫でたり、ハグをしたりしています。そしてある時にハッとしたのが、足の指に触れたい!と感じて、足の指に触れていた時、両親や祖父母や叔母から、私がまだ赤ちゃんだった頃に受けた愛情のような感覚に触れました。私は自分自身の存在に対して祝福を感じたことなんてありませんでしたが、このときに『私は祝福のなかで育ったのだ』と感じた出来事でした。これまでも愛の中にすでにいたけれど、見えなくなってしまっていただけなのだなと感じました。そしてそんな愛に触れながら、身体が動きたくなるのにまかせて祝福のダンスに移行していく、といったかたちでこのステージを味わっています。
ダイナミック瞑想をすると内観が深まる
ダイナミック瞑想を実際にやってみてみると、人生で感じる感情や姿勢を集約したものがこのダイナミック瞑想なんだなと気づきます。なぜなら瞑想をしているときに出てくる感情(瞑想に取り組んでいるときの姿勢)と生き方(人生に対しての私の姿勢)がイコールだから。瞑想を始める前や最中、『疲れたな』『しんどいな』『やりたくないな』『これやって何になるんだろ?』『早く終わらないかな』『今日は身体が疲れているからやらなくてもいいか…』そんな思考が頭をグルグルすることがありますが、その瞑想に対するあらゆる感情や思考も観ていくべき私の一部です。だってこれらの思考は人生でもやっていることだから!!仕事に対してでも私はよく思ってきました。『早く終わらないかな』『早くこんな仕事辞めたいな』『この仕事して何になるんだろう』これらはどこから来ているのでしょうか?なぜいつもこの思考パターンを踏んでは人生に落胆し、自分に落胆しつづけているのか。ダイナミック瞑想中、『こんなの嫌だ!』『本当はもっと情熱を持って生きたい!』そう身体が言っているのを感じます。
私だって情熱がなかったわけじゃない。人生のなかで情熱を注いで一生懸命に取り組んだことだってあります。情熱を注いで好きになった人だっています。でも何らかの理由で叶わなかった。もしくは怖れや持っている観念が邪魔をしてチャンスがあったのに掴むことができなかった。そんな自分を責め、悔やみ、自分で自分を罰してしまった。だから一生懸命取り組むことが怖くなってしまった。惨めな思いをしたくない。惨めな思いをしないように生きてきたつもりが、結果的に惨めさを増大させている自分になっていました。
また出来なかったら?
また失敗したら??
怖い…
だったら始めから何にも一生懸命にならなければ傷つかなくて済むんじゃないか?
そうやって自分の身を守っているかのように見せかけて生きてきたんです。きっとここまでこのブログをお読みになってくださっているあなたも同じですよね?でもいままでの生き方が辛かったから、自分を変えたいと思って、自分を変えようと何らかのツールを自分自身に試してみているのだと思います。
『すべては大好きな自分を幸せにするために』
何でもするからどうにか幸せになれないか?
幸せになる方法を誰か教えて欲しい!
何をやってもダメだった…
もしかするとそれは『しんどいな(=やりたくない)』や『これをやって何になるのか?(=本当に変わるのか?)』から逃げているのではないか。『本当に変わる保障があるならやりたい』『失敗はしたくない』『本当にこれが正解なのか確かめたい』それだときっと何を教わっても、何のツールを選んでも同じことになるはず。この何かをするときに出てくる思考や感情すべてが人生に対するあなたの姿勢だから。だから湧いてくる思考や感情は何にしろ瞑想に入れ込み感じるのみ!!そしていま取り組んでいるワークがあるなら、それらの感情を全力でワークに入れ込みましょう!
生きていて湧いてくる思考や感情はすべて人生のあらゆる分野に共通しています。恋愛ジャンルではこの感情が湧いて、お金ジャンルではこの感情、ということはありません。全部芋づる式に感情と現実は繋がっていて、思いもよらぬところから変化が現れたりするかもしれません。だから自分の人生にもっと前のめりに、関心を持って、注意力を向け、たえず油断なく醒めていましょう!
(Oshoの言葉で好きなやつ→たえず油断なく醒めていなさい)
結局はこの自分に対する姿勢が世界からも返ってくることになります。
無関心が一番愛とはほど遠い。自分にもっと関心を向けましょう!
クールなフリをして、冷めていることは愛とは遠い状態です。
また私は以前、他の誰かの体験と比べては自分は劣っているような気持ちになっていましたが、あくまでも自分には自分だけの体験があり、他人には他人の体験があります。だから誰かと比べて落ち込むなんてことはしなくて良いのです。
よくハイヤーセルフとか高次の自分、とかスピリチュアルでいいますけど、もしかしたら彼らのキャラクターの違いで伝え方、見せ方が違うのかな~なんて思ったりすると面白くないですか?それで言うと私のハイヤーセルフ?神?はクールな塩対応神です。キラキラでファンタジーな世界を見せてはくれません。でもきっとメッセージなのかしら?と思うことはあります。
一瞥体験をした人の話とか、世界がこんな風にいつもとは明らかに違って見えた!!とかそういったお話を聞く度に以前の私は感じていたのです。『あの人は特別だからそういう体験ができた。でも私は特別じゃないから出来ない。ああいった体験を出来ない自分は劣っている。』でもそんなことはありません。きっと人それぞれの体験があるから。だから一瞥体験とはこんなもの、あの人がいっていたように特別な世界がみえたら成功!じゃないんです。きっとみんながみんな同じ体験をしていて、それが悟りとか一瞥体験だというのなら、1+1=2みたいに方程式が決まっているはず。でもそんなものは存在せず、そういった目覚めの体験についてはわからないことが多くて断言できることってないですよね。だからこそ人には人それぞれの体験がある。誰かと自分を比べて劣っているとかしなくていい。それに進み方も人それぞれ、ということなんだと思います。
きっとこの世界は自分を信じて前に進みつづけた人間が幸せになれる世界なんだろうな。
私はそう思っています。
誰かに正解を教えてもらうのではなく、自分に聞いてみる。
失敗をしたって、自分のために諦めずに成功するまでやる人が成功を掴める。
そして自分のことを観れるのは自分だけ。
さあ、今日も自分だけの探求をしていきましょう!!
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